ゲイディベート:聖書と同性愛

こんにちは。まず、はじめにここに来くださり、この僕の話を知りたいと興味を示して下さったみなさまに心から感謝します。またこの場をよろこんで提供してくださった、ヒルユナイテッドメソッド大学にも感謝します。

僕の名前はマフィウ、バインズといいます。今21歳です。大学に通っていましたが、今日話す課題にとりくむために過去2年間、勉強してきました。僕はウチタという町で愛のあるクリスチャンホームで育ちました。また教会は今日話す課題に対しては伝統的な聖書解釈を持つ所で育ちました。 私は、いくつかの広範な問題と、この議論の背後にある境界線を考慮して始めたいとおもいます。そしてこの課題に対して聖書の御言葉を慎重に検証し、最後に僕の見解の結びの言葉で終わりたいと思います。

同性愛の問題、 同性愛者の聖職者の叙階、祝福された同性婚は長い間、教会にとって多大なる物議をかもし出してきました。現在、教会は実質的にこの問題について意見が分かれたままになっています。ある一方の人々は受容と 包含と愛により同性愛についての厳格で伝統的な教会の教えにたいしての変化を訴え、もう一方の人々は、それに反対し 性的純度、神聖、根本的な聖書について重点をおくことを表明しています。 私たちは、権威として聖書を支持し続けているでしょうか、それとも、 たとえ聖書に私たちを不快にさせる事が書いてあっても、真剣に聖書の教えを受けとっているのでしょうか?

まずはじめに、今日の話の課題に対しての伝統的な解釈を考えてゆきたいと思います。なぜならばその解釈の結論は、教会の中で長い歴史があるからです。また

私が思うに、伝統的な考えに縛られている人々は、新しい立場で論議してくる人々に対して自分たちのような聖書的なしっかりとした基礎をもっていないと思っているからです。このようなケースの場合、最も聖書的な立場が明らかにされるべきです。伝統的な解釈をまとめると、6つの聖書の場面で同性愛を言及しています。それらはすべて否定的なものです。3つは直接的で明確です。旧約聖書のレビ記に同性愛の肉体関係は禁止されています。醜態(恥ずべき者)として見なされています。そして新約聖書においては、ローマへの手紙の中で、パウロが 『女は自然な姿を変え、不自然に変わった』と、 また男は女性との自然な関係を捨て、男性どうして恥ずべき行動にでたと言っています。つまり伝統的な聖書解釈によると、旧約聖書も新約聖書も一貫して同性愛の関係を拒絶しています。しかしこの数カ所だけではなく、後で詳しく説明しますが、他の箇所にも記述があります。事実6っの箇所だけではなく31000の聖書箇所からまだあるのです。 しかし、すべてが悲観的なわけではありません。伝統的な観点から、彼らは神が男性と女性、アダムとイブを創造した創世記のオープニングの章から、より広い意味と一貫性を得ています。それは、はじまりのはじまりであり、世界にまだ罪が入る前のことです。

このようにして物事が成り立ってゆきました。ですからこの創世記によると、誰かがゲイならば、彼らの性的指向は罪のしるしであり、人間としての堕落と破滅の兆候であるとみなされます。けれども物事はそのように成り立っていないのです。というのは、性的指向が同性の場合は、それ自体は罪ではないからです。しかし、伝統的な解釈によれば、同性愛行為は罪であるのです。なぜならば聖書は絶対的に禁止するものと、肯定的に承認しているものが明確だからです。

クリスチャンがゲイであり、同性にしか興味を抱けない場合、興味を抱く行為にたいしても慎しみ、自分を否定し、十字架を背負ってキリストに従わなければいけないのです。しかしながら、それはまったく不平等なことです。神様の道は私たちのそれより遥かに高くむずかしく、私たちには質問する余地すら与えられず、ただ従えということになってしまいます。この構造によれば、同性愛者は問題児です。間違った人たちと性的関係を求めているから、彼らは本質的に肉欲で性欲の固まりであるかのようにみなされています。一方、異性愛者は恋に落ち、結婚し、家族をつくり、同性愛者はただ性に溺れる人生だと思われます。しかし、全ての人は性的指向を持っています。それは性欲だけのことではありません。

異性愛者は自分たちの性的指向を、特殊な性質だと考えさせられることがありません。しかし、その一部も彼らの中にあり彼らの人生に大きな影響も与えています。異性愛者の性的指向とは彼らのロマンチックな愛と愛する人のために何かをしてあげようとする犠牲の能力です。それは性的な興味や行為とは違います。

なぜならば、私たちすべては性的指向を持っていて、人に恋をし、長い付き合いを求め、深い関係を結び家庭を築こうとします。

家族はセックスに関するものではありません。しかし、私たちの多くはまだ、深い関係や配偶者を持つことに頼って生きようとします。それは異性愛者と同じように同性愛者にも真実なことです。これこそが同性愛者にとっての性的指向を意味するものだと思います。同性愛者はロマンチックに愛することや愛する人のための犠牲の能力がほとんど異性愛者とかわりません。同性愛者のカップルの分かち合う絆、愛の質は、ほとんど異性愛者と同じなのです。同性愛者のほとんどは、ここにいる皆さんと同じように、家族がいるのです。そして彼らも自分の家族を持ちたいと願っているのです。

しかし、伝統的な聖書解釈の結果、異性愛者は肉欲やカジュアルな恋愛関係、乱交行為をさけるように促す一方、同性愛者に対してはロマンチックな感情さえ、さけることを進めています。異性愛者の性愛は基本的に良いこととされ、賜物とされます。しかしそれは罪深い無責任な側面をもつこともあり、また彼らの周りの人々に祝福され祝われる愛情深い結婚に活かされることもあります。

しかし同性愛者は、彼らの恋愛の思いと願いが大切であるにもかかわらず、長い生涯を約束した関係でさえ罪と言われます。それは彼らの性的指向は完全に壊れていると思われているからです。これはもはや『肉欲 対 愛』。『遊びの恋愛 対 約束した関係』という問題ではありません。 なぜならば、同性愛は本質的に罪だからです。質も関係なく、文脈も関係なく罪なのです。同性愛者の性的指向は破壊されているからです。何も良いものはそこから生まれません。道徳的に良いものはありません。 神様との関係もそこからは生まれません。ですから彼らはロマンチックな愛の絆を周りの人々から祝福されることは永遠に出来ないと言われます。彼らは永遠に家族ができないと言われます。

ピリピの2章4節で、自分のことばかり考えないで、人のことを思いなさいとあります。マタイの5章ではキリストが誰かに1マイル行けと追われたら、2マイル一緒行って上げなさいと言われました。そこで僕はいまみささんに問います。一歩ふみだして、僕と同じ立場になってみてくれませんか? もしかしたら、あまり心地よくないかもしれませんが、1マイルでもいいから僕と一緒に歩いてくれませんか?

僕はゲイです。選んでゲイになったのではありません。これは選べたことではないのです。ゲイでいる事は必ずしも悪いことだからではなく、とても不便なことですし、とてもストレスで生きづらいことです。よく一人ぼっちだと感じ孤独になります。人と違うと理解されないと、受け入れてもらえないと感じるのです。

僕は愛情的で安定した理想的な家で育ちました。両親を愛しています。父と母との両方とつよい絆で結ばれています。幼いころにはだれからも性的にいたずらされたり、虐待されたことはありません。幼年時代はとても恵まれ支えられていました。いままで、恋愛をしたとは一度もありません。性的関係も結婚まではありえないと考えています。しかし、いつかは結婚し、だれかと人生を分かち合い、家族を作りたいという強い願いがあります。

しかし、この伝統的な解釈によると、クリスチャンとして僕が愛や、人生のパートナーや家族を持つ可能性が完全にゼロとされます。独身として神様に導かれている人や、異性愛者だけど、良いパートナーが見つからずにいる独身者たちと違って、僕は独身でいきる特別な導きを神様から感じていません。もしかしたら、愛を育て合い、残りの人生をともに生きたい人を見つけられるかも知れません。

けれども、もしそれが起こったとしても、伝統的な解釈に従えば、だれかと恋に落ちても、それが両思いでも、僕の唯一の洗濯は別れることです。失恋することです。一人で孤独に引きこもることです。それは一度だけに収まらないでしょう。人生でこれからずっとそうしていかなければ行けないのです。だれかと出会って楽しい時を過ごしても、その人をもっと好きになってしまうのではないかと、愛してしまうんではないかという恐れを感じてしまいます。伝統的な解釈によれば、恋に落ちるということは同性愛者にとって一番最悪な事態です。なぜならば、また失恋するからです。別れなければ行けないからです。だれかと関係が近くなり意識しはじめたら、必ずこういう結果になってしまうのです。

そして、友人が恋に落ち、結婚して、家族を持つのを見たら、いつも置いてけぼりになります。自分の伴侶をもち子供をもつ、そのような喜びを味わうことは決してありません。いつもひとりなのです。 それはとっても悲しいことで、ごめんなさいと誰かは言うかもしれません。 幸せになるために、権威ある聖書の御言葉の上に自分の思いを置くことはできません。キリスト教は幸せになるための宗教ではありません。聖書は自分を満足させるためのものでもありません。犠牲と苦しみはキリストの生涯において不可欠でありました。そしてクリスチャンとして私たちは己を否定して、自分の十字架を背負って、彼に付き従うためであるということは、真実なことです。

しかしこれは伝統的な解釈で、この同性愛の問題の指摘に疑問の余地がないという前提で語られています。このことについて、僕はいまから掘り下げていきたいと思っています。すでに2つの問題がその解釈のなかにあります。はじめの問題は、マタイ7章、キリストが山上で語られた言葉に、偽教師について警告しています。 彼は悪い教師から良い教育をテストするために使用することができる原理を語っています。彼らの実で彼らを見る。良い実は良い木から成る、しかし悪い実は悪い木からなると、良い木から悪い実は生まれない。悪い木から良い実は生まれない。キリストからのよい教えは、よい結果をもたらす。それはキリストの教えに従うのは簡単だという意味ではありません。事実、多くのキリストの教えは簡単に守れるものではありませんでした。右の頬を打たれたら左の頬も差し出しなさい。敵を愛しなさい。友の為に命を捧げなさい。それらの愛のすべての深遠な行為は両方とも私たちに神の愛を反映している です。それは人間の尊厳と価値と生命の力強い確認なのです。このすばらしい教えは、たとえそれがむずかしくても、 人間の尊厳を破壊するではありません。それは 感情的、霊的な荒廃につながることではなく、また自尊心と自己価値の損失になることでもありません。

しかし 同性愛者に対しての 保守的で伝統的な同性愛解釈の結果は違います。彼らの人生で実を結ばないからです。そして計り知れないほどの痛みと苦しみの原因となります。もし私たちがキリストの言葉を真剣に受け止めるなら、良い木から悪い実は結ばれないなら、伝統的な教えが本当に正しいのかどうかという疑問にぶつかります。

第二の問題点は前にも述べたように始まりの章、創世記、アダムとイブの創造の記事からくる伝統解釈です。この記事は特に同性婚の祝福に反対する論議をするために引用されます。はじめに、神は男と女を創造された。二人の男も、二人の女も設計から逸脱されます。この聖書の物語は注意深く読む価値があります。創世記のはじめの1章と2章では、神様は天と地、草と動物、人を作られました。それらすべては地上にありました。そして彼はすべてのものが良いまたは非常に良いと言われました。ただ一つを除いて。創世記2:18に神は人が一人でいるのはよくないと言われました。彼にふさわしい助け手を送ろうと言いました。そしてアダムのためにふさわしい助けてであるイブ、女性が作られました。そして女性は大半の異性愛者の男性のためはふさわしいパートナーです。しかし、同性愛者の男性には、このケースはあてはまりません。彼らにとって女性とはふさわしいパートナーではないのです。ほとんどの場合では、女性がストレート(異性愛)男性のための適切なパートナーなのですが、ゲイの人々にとってはゲイのパートナーがふさわしいのです。レズビアンの人たちにもこれは真実です。彼女たちに取っては、レズビアン同士がふさわしいのです。しかし伝統的な同性愛解釈の教えの必然的な結果は、もしふさわしい相手がいたとしても、その人を拒絶しパートナーも家族も持たないで、一人で生きなければいけないということなのです。ここで伝統解釈に立つ私たちは今、聖書の初めで、神様は人が強制的に一人でいるのを悪いと言ったことを、良いことだと宣言しています。この伝統解釈が教えている実は多くの深い傷と破壊を生んでいます。これは大きな問題だと思います。伝統的な解釈を保持することによって、私たちは本来の聖書の教えと矛盾してきています。聖書は人が強制的に一人でいさせられるのは良くないと言っています。しかし、わたしたちはその強制を教えています。聖書では良い教えはよい実を結ぶと言っています。しかし、いま逆なことが起こっています。私たちは、それはたいした問題ではないと言っています。何かここで見落としている点があります。何かが不適切です。なぜならば、これらの問題と矛盾に、多くのクリスチャンは、聖書に戻って、同性愛の絶対的な非難のための基礎を形成している6の箇所を再検討しているからです。もう一度、もどって注意深くその6つの箇所で更に深い学びをすることができるでしょうか?

どんなときも、女性が男性のふさわしいパートナーです。

それにはなんも問題もないと人々はいいます。しかし、何かが不適切です。

このような問題と矛盾のゆえに、クリスチャンは 6つの聖書箇所に戻り 、より深く再検討してゆけばゆくほど、同性愛者を完全に弾圧する基準を形造ってゆくのです。もう一度、それらの聖書箇所に戻って、もっと深く何を学べるか慎重に見てきたいと思います。

その6つの箇所とはどこでしょう? 3つは旧約聖書にあり、あとの3つは新約聖書にあります。順を追ってそれらが出てくる聖書箇所を見ていきたいと思います。旧約聖書の創世記でソドムとゴモラが破壊される物語があり、またレビ記18章と20章では2つの事が禁止されています。新約聖書の中では、パウロはローマ人への手紙の一章でまた2つのギリシャ語でコリント第一の手紙六章と第一テモテへの手紙一章の句に出てきます。まずはじめに、創世記19章のソドムとゴモラの破壊から見ていきましょう。神様と二人の天使は人間の姿になり死海の側にテントを張っていたアブラハムとサラを訪ねました。アブラハムとサラは彼らの事を、はじめだれだかわかりませんでした。それにもかかわらず、二人は彼らを豪華にもてなしました。章の半分をすぎたあたりから、(アブラハムは神だと気づいています)神は言いました。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。私は下っていって私に届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうか見よう。私は知りたいのだ。』 アブラハムの甥のロトとその家族はソドムに住んでいました。それなのでアブラハムは神様に、もし10人でも正しい人がいるのなら、その町を破壊しないと同意してくれるようと話し合いをします。次の創世記の19章のはじまりでは、二人の天使が人の形をしたままソドムに着きました。ロトは彼らを一晩泊まってくれるよう家に招き、食事を用意しました。4節から、“彼らが床に着かないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、全ての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ、ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」。ロトは入口にいる彼らの所に出て行き、うしろの戸を閉じて、言った、「兄弟たちよ、どうか悪い事はしないでください。わたしにまだ男を知らない娘が二人あります。わたしはこれをあなたがたにさし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下に入ったこの人たちには、何もしないでください」。

しかし男たちは脅し続けました、そして天使たちは彼らに目つぶしをし、ロトと家族は町から逃げました。そして神は天から硫黄と火ふらせ、ソドムとゴモラを破壊しました。当初、ソドムとゴモラの破滅は性的な意味合いとはまったく関係ありませんでした。今読んだように、たとえ性的な内容があったとしてもです。しかし、中世に入った頃からソドムの罪、ソドムが滅ぼされた理由は、特に同性愛者であると信じられてきました。この解釈は何世紀にもおよんで支配されてきました。ソドミーという英語の用語も生じさせました。それは生殖目的をもたない性行為すべての事ですが、歴史の中での様々な場面で、基本的に男性の同性関係を意味するようになりました。しかし、これはこの聖書箇所での明確な解釈ではありません。なぜならば、社会が後からこの箇所を同性愛と関連づかせたからといって、聖書自体がそう教えている訳ではないからです。この御言葉の中で、ソドムの男性たちはロトの客人である人の姿をした天使たちをむりやり強姦しようとします。この動作は少なくとも表向きは同性愛のようです。しかし、ここが一般的に、この聖句と同性愛を描く事ができる結びつきでが、 暴力や 強制的 集団レイプと 合意の一夫一婦制、愛情関係は大きく世界が違います。 教会では誰も集団レイプの受け入れを主張するものはいません、それは僕たちの話しているものとは大幅に異なることに注意してください。ソドムの男性は他の男性をレイプしたがっていたのです。ですから彼らは同性愛だったのでしょう。それは彼らの性的な欲望が問題で神様がおさばきになったことであって、脅迫レイプの問題だけではないと、だれかが主張するかもしれません。しかし、古代では男性同士による輪姦は、屈辱の一般的な戦術であり、戦争時の攻撃とその他の敵対の意味合いを含みます。それは、性的指向や興味とは全く関係のない事です。 ソドムのポイントは、客人に恥をかかせることと征服することにあったのです。

それは創世記の19章を読むにあたっての適切な背景であり、特に創世記の18章のアブラハムとサラの篤いおもてなしと19章のロトのおもてなしを対象的な記事として描いているのです。ソドムの男性の行動は、 部外者に対して残酷な扱いを強調するものでした。 この箇所では彼らが同性愛であることを教えているわけではありません。そして実際に、ソドムとゴモラは、彼らの罪が何であったかについての詳細な解説、時には聖書の、その後の本を通して20回も参照されていますが、同性愛については全く言及していませんし、それらに接点はありません。

エゼキエル16:49に、預言者が神様の言葉を受けてこう言っています。『あなたの妹ソドムの罪はこうであった。彼女とその息子たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。』 神ご自身が、エゼキエルでソドムの罪は高慢と貧しい者への無関心さにあると言っています。 マタイ10章、ルカ10章15節では、イエスはソドムの罪と弟子たちに対するおもいやりのない人々の冷たい対応を引き合いに出しています。すべての残りの聖書箇所のソドムとゴモラの罪の20個の参照は、一般的に一つだけ性的な罪と関連があります。新約聖書のユダの手紙の7節にソドムとゴモラが好色にふけり、性的な不道徳と倒錯 を追い求めたので、とあります。しかし性的な不道徳と 倒錯は同性愛だけのことではありません。たとえユダの7節で創世記19:5の強制レイプが特に言及されていたとしても、愛のある同性愛関係に対しては何も関係がありません。現在ではこの箇所、ソドムとゴモラの同性愛が 罪であるという信念をサポートするための聖書の証拠ではないという議論は多くの学者によって認められています。しかし次の聖書箇所レビ記には、『男が女と寝るように男と寝ては行けない、それは恥ずべき事である。』とあります。これは 一般的にその伝統的な解釈の信念を守るために引用され続けています。 これらは確かに、集団レイプの問題よりも、この同性愛の問題へのより大きな関連性があることを主張することができます。 これらは我々の慎重な研究と注目に値します。

少し話をいったん切り合えて、聖書の箇所を見てみましょう。レビ記は第三番目の聖書です。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記そして申命記です。

神様はイスラエルに法律を与えました。それは613ものルールがありました。レビ記は基本的に幕屋での適切な礼拝形式の儀式問題を取り上げています。捧げものに対してどのようにするか、清い食べ物と清くない食べ物、病気と腟分泌物や性的のタブーそして祭司のためのルールです。18章は性的タブーについてのものであり、20章はその処罰についてです。これらの章の中では、男性の同性愛の性交渉は禁止されています。違反者は死罪にあたります。特定な箇所はレビ記の18章20節と20章の13節です。『男が女と寝るように男と寝ては行けない、それは恥ずべき事である。』とありまし、20章の13節にはもし男が女と寝るように男とねるならば、それは恥ずべき行いをしたということで、彼らは死ななければならい。その血は彼らの上に帰る、とあります。

さて、 未だに、レビ記が 同性愛についての神学的な議論の中心を形成していると信じている人々がいるということは、本当に驚きです。実際に 次の重大な聖句はパウロによって書かれたローマ人への手紙です。その理由はその箇所が曖昧だというわけではなく、旧約聖書の律法の内容は、今のクリスチャンに適用できないからです。多くの新約聖書は新しいキリスト教の教会の新興のために旧約の問題の場所を取り扱っています。 異邦人は、以前はもっぱらユダヤ教の信仰だったものにはじめて仲間として加えられました。 猛烈な論争が起きました。 異邦人の改宗者は、その600以上のルールで、法律に従わなければならない必要があるかどうかについての初期のユダヤ人キリスト教徒の間で分裂がありました。そして使徒の働きの15章では、この問題がどう解決されたか読む事ができます。

 

紀元後49年、 初期の教会の指導者たちは、エルサレムの評議会と呼ばれるようになった所に集まりました。 彼らは、古い法律は、異邦人の信者を拘束しないと判断しました。 古い法律の中で最も文化的に独特の側面は、イスラエル人の複雑な食ベ物に対する規定と 男性の割礼の習慣でした。 しかし、エルサレムの支配評議会の後、イスラエル人のアイデンティティと文化の中心部はもはやキリスト教徒に適用されません。 今日でも共通の議論ですが、 レビ記の旧法からのこれら2つの箇所や、他の法律は キリスト教徒にも適用される記録として残されていると考える理由はありません。たとえ他の箇所の法律の中心的な箇所でさえ、もはや適応されていません。

ガラテヤ6章で、今のところポールが言っている事は、キリストに合って割礼も無割礼も意味がありません。彼は、旧法は奴隷のくびきでありクリスチャンがそれを背負う事を警戒しています。コロサイ書の2章でポールは 『キリストを通して、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』と書いています。福音書では、キリストは自分が律法を全うすると説明し、ローマ人への手紙10:4でパウロは、キリストは律法の終わりであると書いています。ヘブル書8:13で、 キリストは、古い法律のシステムからクリスチャンを解放し、新しい契約の基礎となり、古い契約(ほとんどが特に古代イスラエル人の民とその変わった礼拝形態)が廃止されました。今ではクリスチャンは、常に法律のキリストの履行の光の中で 特にレビ記は適用できないとして 考えています。そして事実、レビ記で同性愛を禁じていたとしても、レビ記は他にも様々な 他の行動、活動、食品を禁じています。それはもはや、今のクリスチャンが全く彼らに禁じられている事と考えていません。たとえばレビ記の11章では豚、エビ、ロブスターを食べる事を禁じていますが、教会はそれらを罪と考えていません。19章では違う種を同じ畑に植えること、身に着けている衣類は、2つの材料のタイプの織布であること、頭の両側の髪の毛を切る事を禁じています。クリスチャンはこれらのどれも罪深い行動だとは考えていません。なぜならば、キリストの十字架の死がポールの言っている“奴隷のくびき”から解放して下さったからです。

 

我々は、古い法律の対象になりません。しかし、旧約の律法の中で、今でもクリスチャンに向けられている律法があります。それは十戒です。例えば、ある人たちは、レビ記の18:22と20:13の同性愛の禁止は例外的にまだこの時代のクリスチャンの対して向けられているものであると訴えています。この考えにたいして、3つの議論があります。初めの議論は、レビ記の18章と20章に姦淫、近親相姦、野獣愛を禁じています。これらすべては同性愛と同じように罪深いと考えられています。しかし、同性愛を禁じる聖句の3つ前の句、18章の19節には女性との月経中の性行為も禁止されています。これもまた、恥ずべきことだとこの章の終わりに言われています。しかし、これらは今のクリスチャンが罪だと考えない事です。 むしろ、それは古代イスラエル人のための清めの儀式の限られた問題のようです。この章のすべての禁止されている他の種類は、姦淫近親相姦、野獣愛などは、そのあと何度も律法内と、律法外で残りの旧約聖書 、出エジプト記、民数記、申命記、エゼキエルに繰り返し語られています。 しかし、同性愛の禁止はこのレビ記にしか出てきていませんし、他の、多くの禁止事項をクリスチャンたちは自分たちに適応されているとは読んでいません。

 

さて、レビ記では、それは恥ずべき事であるとありますが、もし恥ずべき事ならば、今でも、良い事ではないはずです。それならば、その恥ずべき事は旧約聖書の非常に広い範囲で適用されているわけであり、貝を食べる事(レビ記11章)

ウサギや豚を食べること(レビ記14章)これらも、恥ずべき物と呼ばれるのです。そして、僕が先ほど話したように、月経中の女性と寝る事も、恥ずべき事であります。 用語 “醜態” (恥ずべき事)は、基本的にはっきりとイスラエル人と諸外国が普通にしていることを区別するために、旧約聖書で使用されています。

ですから、創世記の43章32節には、エジプト人がベブル人と食事をともにするなら、エジプト人にとって恥ずべき事であると言っています。そして出エジプト記8章の26節ではイスラエル人がファラオ神殿の側で犠牲の捧げ物を捧げていればエジプト人にとって忌み嫌われると言われています。もちろんイスラエル人にとって捧げることは別に何も問題はありません。 この両方の問題点は、特にイスラエル人と外国人の間の具体的な行いの一線が曖昧であるという事です。

旧約聖書 の“忌み嫌うべき事”用語の性質は意図的に文化的に特定のものであり、それはイスラエルと他の国の宗教と文化の境界線を意味する物です。

しかし、それは本質的に良いか悪いか、正しいか間違っているかについての文ではありません。ですから旧約聖書に適用されている多数のものの一部はクリスチャン生活と実践にも受け入れられています。 さて、しかし罰は死です。確かに死に値する問題の行いについては、はっきりと悪い事であり、罪深いと言わざるをえません。

しかしこれは、古い法律の他の刑のすべての重大度を見渡せます。

順序やまとまりを維持し、飢餓、病気、内部の不和、そして他の部族からの攻撃によってイスラエルの人々に与えられた脅威が彼らのために極めて重要であったので、 ほとんどの旧約聖書の刑のすべては、非常に厳しい事として私たちを驚かせます。 女性の月経期間中にセックスしているカップルは、永久に社会から追放されるべきである。 司祭の娘が売春に該当する場合、彼女は火あぶりにされるべきである。 無駄に主の名を使用したものは、叱責されるだけではなく、投石させる。また両親に従わない人は同様に投石されるべきである。 我々が、もはやモラルの問題として表示されないことのいくつかでさえ、旧約聖書では死刑とされています。出エジプト記の35章2節では、 安息日に働く事は死罪でした。またエゼキエルの18章では利息をつけて貸し、高利をとる者は死罪にあたり、これもまた忌み嫌われるとあります。 誰かが旧約聖書の中で死刑を受けたという理由は、クリスチャンもそれらを罪として見る必要があるわけではありません。一貫的で効果的なアプローチであるために、あまりにも多くの差異があります。 約2千年の間違ったキリスト教の、古い法律や数百のルールや禁止事項を特定としたアプローチは今、キリストの死によって は成就されました。レビ記18:22と20:13はその規則の例外であるべき理由はないでしょう。

 

さて、 綿密に検討した際、 愛情関係のある同性愛者に対して3つの旧約聖書の箇所は説得力のあるものでないと言う事になりましたが、新約聖書ではどうでしょうか? そして実際、この神学的な議論を勉強し、多くの時間を費やしてきた人は、最も重要な6つの聖書箇所は旧約聖書に含まれていないことを知っています。 それはローマの教会へのパウロの手紙の冒頭の章に表示されます。 特に、ローマ人への手紙(以下ローマ)一章26節17節です。 この御言葉は三つの理由で最も重要であります。はじめに、新約聖書にあるということ、ですからレビ記と同じような文脈と適応の問題は発生しません。 第二に、レビ記とは違い、男性と女性の両方の話をしています。第三番目に、 それは、2つの連続した文章で、非常に長くはないにもかかわらず、新約聖書の中での同性愛を語る話の中では一番長いものです。 これら2つの文はやや複雑で、偶像崇拝についての広範な神学的な引数の中に埋め込まれているため、他の箇所より時間をかけて話していきたいと思います。 ポールはすべ不完全な人類、ユダヤ人と異邦人を問わず全世界の人々が、キリストの救いが必要だと記述することで、ローマ1章から3章の手紙を開始します。ローマ3章で、全ての人は神の栄光の前で罪を犯し堕落したと言っています。ローマ3:10では、正しい人は一人もいない、たった一人もいないとパウロは言っています。

このケースを効果的に構成するためパウロは2章で、 ユダヤ人は律法を持っているにもかかわらず、彼らはまだ自分で自分の救いを得ることに十分の従っていないと議論しています。しかし一章で より広く人類の不義を記述します。またローマ1:18−32は偶像礼拝の結果、異邦人の堕落がおこり神様から拒絶されたとあります。パウロは、彼らは神の真理を知っていたにもかかわらず、神を拒み、真実と嘘を交換し、創造の神よりもその後に造られたもの(鳥、動物、虫類) を拝み、仕えたとあります。そして彼らは神を求める事をあきらめたゆえに、神様も彼らをなすがままにさせ、神と歩まないで生きるようにされたと 悪と情欲が広範囲に語られています。26節と27節にこれらの悪と情欲は、同性愛の罪深い行為が含まれています。

 

”こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。”

 

このケースは、最終的に閉じられたようですが、たとえ、レビ記が今のクリスチャンに当てはまらないとしても、 パウロの新約聖書では、同性愛の関係を罪深いものとしてはっきりと受容できないと教えています。たとえ彼が同性愛の愛情関係でなく情欲行為だけを語っていても、 彼は同性愛の関係を不自然と定義づけています。 彼らは神様の自然なデザインではないと、創世記1章、2章にあるように、もっぱら異性愛者が自然であると言っています。ですから、たとえ同性愛が愛という名のもとで育まれ、永遠の約束を交わしても、罪深いのです。これが伝統的保守的なローマの1:26−27の解釈です。どれほどこの解釈は堅実なものでしょう。この聖句は愛情深い同性愛の関係の可能性を否定するように求めているのでしょうか?もしそうならば、この考えの立場にたいして、僕は指摘してきた問題と意味が繋がるでしょうか? ここでのパウロの意図とは、神様は同性愛の人々が、性的に壊れているので、また神の創造外の産物なので、不自然なので、ずっと彼らが一人でいることを望んでいると教えているのでしょうか?

この聖句を理解する為には、まず、自然と不自然をどう理解するかにかかっています。 一般的に、これらの用語は創世記1章と2章に参照されている伝統的な解釈を維持する人々によって異性愛は神様からの自然な作品であると定義される傾向があり、同性愛は不自然であると想定されています。しかし、 綿密に検討するならば、その解釈を裏付けていません。パウロが使った用語の意味を理解するためには、二つの事を考慮しなければいけません。まず何が自然の機能という概念なのかを知るために聖句の広い文脈を見なければなりません。次に、 我々は、パウロ自身が彼の他の手紙でこれらの用語をどう使用しているか、それらがどのように一般に広く古代世界における特定の性的行動に適用されたかを確認する必要があります。はじめに、聖句の文脈です。ローマ1章の18から32節で、パウロが偶像礼拝にたいして強い議論を訴えています。そしてその議論はとても正確な理論で成り立っています。 理由は、偶像崇拝者の行動は非難に値する、なぜならば彼らは神を知っていたからだ、とローマ1:18−20に述べています。彼らは神の知識を求めたが、後には神を拒絶する道を選んだと。神について知られる事は彼らに明らかであり、それは神が明らかにしたとパウロは書いています。

ローマの1:20で世界の創造のはじめから、神は目に見えない存在であり、 彼の永遠の力と神性は明らかに表されており、創造された物によって理解されています。ですから弁解の余地がありません。偶像礼拝者は言い訳できないのです、というのも、彼らは真理を知っていて、真理から始まっていて、しかし拒絶したのです。 性的行動についてのパウロの後の文章は、これと同じパターンに従います。女性も自然の関係を変えて不自然な物とし、男性も女性との自然な関係を捨て、男性との恥ずべき行動をおかしたと。男性と女性のはじまりは、すべて異性愛者でした。彼らは自然に神様の知識と歩んだように、 自然と男女でありました。しかし、 彼らは不自然のもの(同性愛行為)のために元の自然な性向を拒否しました。偶像崇拝についてのパウロの議論は、 偶像礼拝者は初め神を知っていたのに、あえて神に背を向けて、偶像とそれを代えたと言う事が彼らの過ちだと言う事です。

男も女も初めは異性愛者でした。それは自然な事だったのです。彼らに神の知識が自然と備わっていたように、しかし、彼らは、その本来の自然な傾向を拒絶し、不自然なことに走ったのです。彼らにとってそれは 同性愛の行為です。同性愛行為へのパウロの見解は、偶像崇拝の大きな罪を説明するために意図されています。しかしこの議論を理にかなったものとし、類比の効力を有するための解釈は、パウロが説明している人々の初めは自然な異性愛者であり、それなのに彼らはそれを捨てたと言っています。これこそが彼が説明している真意です。

しかし、私たちが話していることは異性愛者の問題ではありません。ゲイの人々は自然で永続的な性的指向を同性に抱いています。それらは選んだものでもなければ、代えたものでもありません。 彼らは異性愛指向を捨てたり、代えたりした訳ではないのです。はじめから、彼ら同性愛者にとって、そのような選択はなかったのです。もしゲイの人々に適用するなら、パウロの議論はもっと実際にちがった方向に働いたはずです。もしこの御言葉の要点が、自分の自然な姿をはねつけたことを叱責しているなら、( 宗教的に偶像礼拝や性欲の場合)自然な異性愛者は、同性といてはいけないし、逆にまた、自然的な同性愛は、異性愛者といてはいけないのです。同性愛にとって、異性愛者といっしょにいることは、それことが自然な事を不自然に代えていることとなるのです。わたしたち同性愛者は、性的指向においては全く違う“自然”を持っているのです。しかしこれは、 賢い議論ですが、ポールの世界の歴史的文脈では、性的指向の基礎がないもので、 彼が本来意図した解釈ではなかったのでしょうか? 結局のところ、性的指向というコンセプトはとても最近のものです。ほんのわずか1世紀以前のころからの話です。そして、ついこの20年ほど前から理解が広がりました。それでは、どのように我々は近代的な理解を取り出し、それを使って、これまでのところ削除された文章を解釈することができますか? 除去の範囲は重要です。

古代では、同性愛はそのようにならないようにするか、少数派のものだと思われていました。しかし、彼らがもし行き過ぎた場合に欲望が過剰になったり、誰もが持ちやすい性欲を抱きます。いつくかの言葉を引用して説明したい事があります。一世紀によく知られていた哲学者のディオン クリソストムはこう書いています。

“ 男性の性の欲望で簡単に得られる物は、軽蔑的であり、女性からの愛も、あざけりであり、容易に与えられたものは男性として恥である。むしろ、難解で、努力しないと与えられないものの方が、彼にとっては何かしらの喜びであり、あきさせないものである。

四世紀のクリスチャンの作家が同性愛についてこのように言っていました。

そのような情欲は普通ではない、どん欲から来ます。

 

同性愛の欲望のための異性関係の放棄することは、頻繁に暴飲暴食と 比較されていました。 セクシャリティーは、異性愛関係は節度のある産物であり、同性愛関係は過剰な欲の産物であるという虚像としてみられていました。それは個人的な性的指向とは、全く関係ありません。しかし、 先ほど話した用に、同性愛関係は、過激さと肉欲と関連されます。それでパウロはローマの一章で彼らのために神に祈っているのです。彼の目的は、偶像礼拝者が 奔放な情熱に身を投じた事と性的な混乱と過激な醜態を表現したことを説明する事でした。 それは、当時において、同性愛関係を最も一般的に説明した方法として完全に一貫していました。 ポールは、一般的な性的な混乱を示そうと、同性愛の例をもって説明しました。その理由は、彼が説明した人々は初め、異性愛者であり、そして肉欲がはじけ、異性愛者である事を捨てて他のものと取り替えました。パウロがここで性的な欲望と安易な肉体関係を話しているだけだということはとても重要なことです。彼は人々が恋に落ち、互いの人生をともに歩むと約束し、家族をつくるという問題について何も話していません。私たちはここの御言葉で異性愛者の肉欲と乱交と、それに従って結婚関係を捨てたクリスチャンの異性男性のことについては全く夢にも読んだ事がありません。性的関心において、肉欲と愛、また不特定多数との肉体関係とたった一人との約束した関係、 乱交と一対一の関係とは、全く大きな違いがあります。

この違いは、常に男性クリスチャンにとって性的倫理としてキリスト教の教えの中心とされてきました。どうしてこの違いは、ゲイクリスチャン男性にとってのものではないのでしょう?

では、どのようにしてわたしたちは、同性愛の肉欲と乱交、またゲイの人々が形作ってゆける愛情関係の弾圧を御言葉から読みよれるでしょう。それは我々が、男性異性愛クリスチャンの人々に適用されるものとは非常に異なる基準だからです。このような異なる基準を全面的にサポートする 本来の議論は、パウロは単に同性間の肉欲を避難しているのではなく、彼は、同性間の情欲は恥ずべき物だとまた同性愛関係は不自然であると言っています。先ほどもいいましたように、なぜパウロが不自然という用語を使ったかというと、それは偶像礼拝が故意に彼らの自然な異性愛の欲望を拒絶したことに由来します。偶像礼拝者が神を偶像に代えた事を映し出している、これが全体の御言葉の用語の働きであります。

再度、いいますが、このような違う基準を全面的にサポートしようする本質的な議論は、パウロは、単に、同性愛を弾圧しているわけではないという事です。

しかし、ここの御言葉を離れる前に、パウロがこの用語を他の手紙でどう使っていたか、自然と不自然という言葉がどれほど頻繁に彼の時代、性的な面で用いられたかを考えてみたいと思います。パウロの重要な“自然”に対しての参照の一つは第一コリント11章です。その13節から15節は、彼はこう書いています。

“自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。”

これはローマ書の1章の26-27と、とても似ている箇所です。なぜなら、彼がここで自然という言葉を使っている以外に、“恥じ”という用語も使っています。これはローマ1章で解釈されている“恥じ”と同じ用語です。ところで、第一コリント11章で解釈されている用語はローマ書で伝統的解釈が読ませようとしている用語とは違います。一般的なギリシャ語の“自然”という意味の一つには、習慣というものがあります。 これが第一コリントの御言葉を今のクリスチャンが広く解釈している意味です。参考にしている第一コリントの‘恥’とローマの“恥”は、特に恥ずべき与えられた特定の習慣であるとみなされます。ですから、パウロの第一コリントを私たちがどのように読むか、次のようになります。

“社会が決めていることで、男性は髪をのばすのは恥ずべき事ならば、その習慣をやってはいけません。しかし女性にとっては尊敬すべき事ではないでしょうか。”

この箇所は 古代地中海での性別や髪の長さについての態度を説明しています。 自然的生物学的過程において男性は短い髪である、という概念よりそれは古代の習慣であったことの方が意味が通じると思います。  自然的生物学的過程にいてば 、男性の髪は伸びる物です。

さて、再びもどりますが、この 第一コリントの髪の長さについての聖句は 、パウロのローマ書の性的行為の聖句と、とても似ている箇所です。そして、もしわたしたちが、パウロの言っている第一コリントの “自然”と“恥”の意味が習慣についてのことだと理解するならば、なぜわたしたちは、ローマ書1章に対しても、同じ意味合いであると解釈をしないのでしょう? 事実、伝統的な解釈と違って、 このアプローチする用語、”自然”と “不自然”は実際に古代ギリシア人とローマ人によって性的行動に関して使用された方法と一致するのです。 それらの家父長的社会では、 女性は男性に劣ると見られていました。おもな区別で、性的行為について、彼らが話している議論は、性的指向ではく、むしろ、受け身の役(女役)かアクティブの役(男役)かが話されていました。

ギリシア人とローマ人、聖書の時代の他の社会の人々は、男性の性的関係での自然の習慣の役割は、アクティブであり、一方、女性は受け身であると信じられていました。 いずれかのこれらの役割が反転したとき、男性が受け身で、女性がアクティブの場合、 彼らは、慣習的性別役割分担に違反するその行動が恥ずべき事であり、”不自然”であるというラベルを貼るのです。ですから、一般的にこの同性愛を “不自然”と呼ぶのです。しかし、ギリシャ人とローマ人 の適切な髪の長さの態度についてと同じように、彼らの父系主義文化の男女の役割に対しての見解は、とても特有のものです。この二つのケースで、パウロは その社会で既に幅広く通用されている用語を使用し、彼の伝えていることを説明しています。ローマ一章で彼が使っている用語“自然”は彼の第一コリントと同様です。聖書解釈において、私たちが、 歴史的に正確で一貫性のあることを行っているのであれば、わたしたちはローマ書の1章とそして第一コリント11章の “自然”という用語は、 生物学的秩序ではなく、社会的習慣であり、 文化的な特定用語であるということを認識する必要があります。

さて次に、わたしたちの残りの2つの問題の箇所は今までの箇所よりも短いです。ですから、あまり時間をかけないように説明します。それらは、第一コリント6:9と第一テモテ1:10です。 ここでの議論は2つのギリシャ語の用語の翻訳が中心となります。第一コリント6:9でパウロは神の国を相続できない人々に対して警告しています。そして彼は10個の異なるタイプの 人々を例にあげています。ここでの論争は、やはり解釈なので、400年以前に出版されたキング、ジェームズ版のこの御言葉から近代の論争以前に、さかのぼって始めたいと思います。

“正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである”

ここでの議論のキーワードは “女々しい”(男娼となるもの)と訳される言葉と “人類への自分自身の乱用者。 abusers of themselves with mankind. (男色をするものと訳されている)” この曖昧な解釈は、 どうこれらの言葉が、実際に何百年もの間、英語に翻訳されてきたかは一貫しています。 具体的にはいくつかの不道徳や虐待の一種ですが、どのようなことかは具体的には述べられていませんでした。 いつくかの聖書は、これらの用語を直接、同性愛だと結びつけた解釈をはじめたとき、前世紀に途中が変更されました。聖書の解釈で、単に “同性愛者は”神の国を相続しないことを述べていると公開され、1946年にこの転向が発生しました。数十年後、 性的指向と性行動との間の区別が、より広く理解されるようになった後に、この箇所は同性愛間性的行為が天の国を相続できないと変更されました。 しかし、性的指向に関するこれらの用語や概念は、聖書の世界には完全に、なじみのないものです。英語のゲイを意味し対応する言葉は、新約聖書のギリシャ語や旧約聖書のヘブル語、初期のクリスチャン聖書解釈の語源にもありませんでした。性的指向のコンセプト(特に同性愛の指向)は古代には存在しなかったのです。 英語の用語 “同性愛者”は、19世紀の終わりまで造語されませんでした。 パウロが当時使っていたという言葉の解釈が、 近代的な概念を使ったということは、とても疑わしいものです。しかし、今日たくさんの聖書解釈があります。それらの全てではありませんが、同性愛と結びつけた言葉の使い方があり、“同性愛行為”“男が男と寝る”“男娼”など様々なものがあります。 翻訳におけるこのシフトの根拠は何でしょう? キングジェームズの中での “世人と自分を乱交するもの” の言葉は、複合語であります。ギリシャ語の “アーセノコイテス”の“アーセン”は “男性”と言う意味で、“コイテス”は“ベット”という意味です。

これらは、一般的には性的な意味合いを持ちます。そして、ここでの議論は、我々はその語源から、この用語の意味を調べることができるということです。男とベットという 複数形は、他の男と寝る男ということを言及しています。 しかしこのアプローチにはいくつかの問題があります。はじめに、 単に単語の構成部品を見ても、必ずしもそれが何を意味するのか教えてくれません。 多くの英単語のアプローチは失敗していることがあります。 例えば、単語の ”理解”、 “蝶”、 “新婚旅行”です。“understand,” “butterfly,” “honeymoon.”  構成されているこの言葉のパートは、“ハニー”と“ムーン”です。この2つの単語が組み合わされて実際に何を意味するのかについては何も教えていません。この言葉の意味を理解するためには、この文脈がどう使われているかを考慮しなければいけません。“世人と自分を乱交するもの” “アーセノコイテス”の言葉の問題は、 それは、古代ギリシャでは非常にまれにしか使用されなかったことです。第一コリントでパウロが使ったこの言葉は、最初の記録された使用た言葉であると考えられています。そしてパウロの後、 それが表示されているいくつかの場所は、文脈の中で最も有利ではない一般的な悪習のリストになる傾向があります。幸いに、 これらのリストの多くは、カテゴリ別にグループ化され、 このギリシャ語は一貫して、むしろおもに性的であるものよりも、おもに経済的な性質のものである罪を表示されます。 これと他のいくつかの文脈的記録は、 この用語は、性的な意味合の、なんらかの経済的搾取の種類に言及していると示されています。

これは同性愛行為に関係する物かもしれませんが、 しかし、強制的であり搾取的な形態でもあります。 愛のある誠実な関係に、この用語をつなぐための文脈のサポートはありません。もう一つのキングジェームズの論議的な言葉に“エフェミニン”という解釈の言葉があります。ギリシャ語では“マラコス”です。 これは、古代ギリシャ語では非常に一般的な言葉であり、それは文字通り”柔らかい” です。 これは、おおくの文脈の中で、侮辱として使用され、 意志の弱い人々、臆病物、なまけものとして口にされていました。 また、それらの欠点はすべて、古代の特に女性に関係していました。 従ってエフェミニンとされました。

特に性の脈絡の中で、 この単語は一般的に放逸と放蕩を記述するために使用されていました。 これはどんな特別の種類の関係にも、制限されていませんでしが、性的に受身的役割(女役)をとった男性は、時々この用語の対象となりました。それは何人かの現代の翻訳者が同性愛という 基礎の上で 関連づけたものです。 しかし、多くの人々は様々な性的な恥ずかしいことをしたために、この言葉の対象となりました、ほとんど本来、性的ではない人々や、またほとんど肉的な男女関係や、数多くの状況の中から、一つの可能な理由を選び出し、 それをポールが考えていたものに違いないことを言うための有効な根拠はありません。1900年間の翻訳よりも、もっと普及された曖昧な本来の文章にもどったほうが忠実でしょう。

パウロがここでゲイであると理解している人々、また神の国を相続できない人々は、まったくもって、しっかりと吟味されていません。

最後の御言葉の箇所は、第一テモテへの手紙一章の10節です。ここでまた、パウロがいう法に反している“世人と自分を乱用者するもの“ が人々のリストの中に出てきます。ここの翻訳は ”世人と自分を乱用する、また汚すもの“ とあります。ここの翻訳問題および討論は第一コリント書からのものと同じです。さて 、この用語の他の用途から引き出すことができる最強の推論、それは おそらく同性愛関係の性的な強制を通した、経済的搾取だということです。しかし、これは今まで話してきた箇所とはとても違います。

 

され、これら6つの聖書箇所の中でも最も同性愛について言及している御言葉の箇所です。本当に、全てが否定的ですね。しかし、それは決定的な論拠はありません。 一般的に性的行動、異性愛の行動への言及も大半は、聖書の中では否定的です。しかし、性欲が悪いという訳ではなく、すべての性の話の参照が不倫、乱交、レイプ、暴力、過劇な肉欲だからです。そして、聖書はまた、それらの関係について否定的な数百の詩に加えて異性関係の肯定的な確言をも含んでいます。そしてそれは、同性関係についての明確な肯定文が含まれていません。 いかなる種類の同性関係も、これまでほとんど議論されていませんし、 それに非常に少数の参考資料で、深い同性愛情関係とは全く異なる文脈で使われていました。

創世記の19章では、脅迫的な集団レイプが言及されました。第一コリント6章と第一テモテ1章では、 性的搾取が言及されました。ローマ書1章では、パウロは 一般的な性の混乱、また過激さの実例の一部として 貪欲な異性愛者の同性愛行動を言及しています。しかし、彼はその行為が“不自然”というラベルを貼りましたが、彼が使ったこの用語の意味は、 “習慣に反する”男女の役割であり、彼が、男で長い髪は、”不自然”だとラベル付けしたように、 社会的な習慣を言及しました。唯一の同性愛関係を禁止している聖書箇所のレビ記は、旧約聖書の法律規約の文脈から来ており、クリスチャンに対して適応された事はありません。

聖書は、愛のある 献身的な同性愛関係を 一度も直接的に語っていませんし、非難もしていません。性的指向について聖書的な教えは何もありませんし、また ゲイの人のための生涯独身の呼びかけもありません。 聖書の人間のための神の意志は、明らかに強制的な孤独を拒否しています。神が“人が一人でいるのは良くない”と旧約聖書で言った様に、新約聖書も同じ事を言っています。第一コリント7章でパウロは結婚と生涯独身について書いています。 彼自身は生涯独身でした。また彼は、他の人々も彼と同じように独身でいて欲しいと願っています。しかし、彼はまた、全ての人はそれぞれに自分の賜物があると言っています。 パウロにとって、生涯独身は霊的な賜物でした。そしてそれは多くのクリスチャンがもっていない賜物だと気づいていました。しかし、多くの人は、 独身の賜物に欠けているので、パウロは 不品行が横行している姿をみました。 そして、彼は独身の賜物がないクリスチャンにとって性的罪に対する救済や保護の手段として結婚を進めています。“情欲に燃えるよりは結婚した方がいい”と言っています。そして現在、 クリスチャンの大半が独身の賜物や、その呼びかけのどちらも感じていません。 これは、ストレートとゲイのクリスチャン の両方に当てはまります。 それでストレート(異性愛者)クリスチャンにとっての性的罪に対する救済策は、結婚の場合、 なぜゲイのクリスチャンのための救済策は、同じであるべきではないのでしょう?

同性愛者の結婚について教会や社会の両方の推論と我々が持っている議論は、抽象化の中でさまよっている傾向があります。 男と男が、また女と女が結婚するのは正しいことでしょうか。正しいとは見えないでしょう。神様はそのように私たちを造っていません。神は男に女を、女に男を造られました。それが神の創造です。神が結婚を定めました。 それは、私たちが干渉したり変えられることではありません。しかし、この議論はいつも異性愛者によって造られています。 彼らは常に、神の創造にフィットしています。世界中の他の誰よりも、一見、彼らの両親よりも、友達よりも、その異なる性的指向を持ったがゆえに、心の中で苦痛と苦悩の年を耐え忍んだ事もない異性愛者が議論し続けるのです。しかし、ゲイの人々も神の子供であり、他の人たちと同じように、神の創造の一部であるのです。 ゲイのクリスチャンは劣っている、破滅的で、また堕落の存在であり、 神は本当は全ての人を自分たちと同じように異性愛者として造られたと主張する異性愛者教徒は、とても恐ろしく不適切に感じます。しかし、僕も僕の性的指向も神の創造の一部です。 僕は神様の作品です。それが、僕が日曜学校で育った時に 一番初めに学んだ事です。神様が僕を造った。神は僕を愛している。僕は、ほかの人と劣ったりしない、神様のかけがえのない愛しい子供だということを学んだのです。僕は神を愛しています。イエスキリストも心から愛しています それは僕の残りの人生を憎んだり、 自己憐憫にあけくれたり、みじめになり、自己嫌悪に陥ることのためではありません。そんなことのために、神様は僕を造ったわけではありません。 この議論 ”同性愛者の問題” は抽象的な領域で行われることはでませんし、理想的な創造と男女の役割に思いをふけって、まるでゲイの人々の存在はないということもできません。 イエスは、他の人々が見落としたこと、 虐待や疎外されたマイノリティで、のけ者だった弱者の人たちに、特に焦点をおきました。

私たちが、キリストの人生を熱心に見習おうとするなら、それが私たちのフォーカスすることです。 ローマ書12章で、ほかの人々を自分よりも尊敬しなさい。喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者と共に悲しみなさいと言っています。ヘブル書13:3には、「あたかもあなた方自身が苦しんでいるかのように虐待される人々を思い出してください。」と言っています。 ただ単に、ゲイのクリスチャンの存在ではなく、 クリスチャンの兄弟姉妹がゲイの人々に与えた傷と 深い痛みを、どれほど、身にしみていますか? その痛みを自分の痛みのように悲しんでいますか?普通の人々が、ゲイの人たちを傷つけ、苦しめているかもしれない事を、どれだけ気付いているでしょうか? “責めないけど、同性愛は罪です。聖書に書いてある事を読んでいるだけです。”と異性愛のクリスチャンがこんな風に言うのは、まだ当然です。しかし、それはとんでもないことです。彼らはただ聖書を読んでいるわけではありません。 彼らは、聖書の文脈でいくつかの箇所をとり、 全く意図されていないのに、ひどく非難している所を抜粋し使っているのです。彼らは、他人の心の深い所を撃ちのめし、 尊厳と自己価値を奪っています。彼らは、ゲイの人々が何世紀にも聞いたことがある迫害のメッセージを強化しています。お前たちは一生孤独だ。家族がいても、自分では家族を持つ事はできない。お前たちは、愛する価値も、だれからも愛される価値はない。なぜならば、お前たちは違う生き物でゲイだからだと。

人と違うということは、犯罪ではありません。ゲイである事は罪ではありません。ゲイの人たちが、異性愛者のように、愛し合い、結婚して家族を求める事は自己中心でも罪深い事でもありません。雅歌書でソロモンの結婚式の所を話しています。“その日、彼の心は喜んだ。” 小さい少数派を非難すること、結婚だけではなく、人生の愛と献身的な関係や家族を否定することは、 壊滅的なレベルの傷と苦悩を負わせることです。聖書の中でクリスチャンは人々の傷を永続させる為に呼び出されたのではなく、 むしろ、それらを緩和するために、働くよう示されています。(特に問題が簡単に解決される事柄において) すべては、受け入れることにかかっています。 聖書はゲイの人々を受け入れる事と、可能性のある彼らの愛の関係を反対していません。もし、同性同士の愛の関係に対して、やはり納得がいかなく、完全に反対意見なら、どうか僕のために違う視点で物事をみる努力をしてくれませんか?  僕はあなたたちに、こう自分に問いかけて欲しいのです。 どのくらい深くあなたたちは、ご自身の家族を思っていますか?どれほど深くあなたの伴侶を大事に思っていますか? そして彼らがもし危険や害に合ったりした時に、粘り強く彼らの為に戦いますか? 私の事も彼らと同じように、深く、大切に思って、粘り強く戦って欲しいのです。彼らゲイの人々は私の家族だからです。 同性愛者の人々は私たちの家族や社会の一員として大切にされるべきです。真のクリスチャンの対応は愛と受容のサポートであると僕は信じています。今日ここに来てくださったみなさん、ありがとうございました。